民主化革命(ピープルパワー革命)の立役者、アキノ元大統領がお亡くなりになりました

 去る8月1日、フィリピンのアキノ元大統領がお亡くなりになりました。

 いわゆるピープル革命がフィリピンで起こった時、私はまだ高校生ぐらいだったと思います。それでも、テレビのニュースにかじりついて見入っていたのを覚えています。まさか、その時はその後にフィリピンで暮らすことになるとは夢にも思っていませんでしたが…。

 夫が政治家で、暗殺されてしまったというたったそれだけの理由で、大統領選に担ぎ出されてしまったコリー(アキノ元大統領のニックネーム)の政治手腕を、評価する人はあまりいません。むしろ、政治にはズブの素人だったと言えると思います。
 中部ルソンの大地主の娘として生まれ育ち、何の苦労もなく過ごしてきたコリーの人生は、夫を亡くして大きく変わったに違いありません。貧乏人の暮らしなど、それまでは想像だにしなかったでしょう。

 それでも、コリーの葬儀には、何万人もの市民が駆けつけ、最後のお別れをしました。そして、マニラ大聖堂へと向かう長い長い道のりは、それよりもさらに多い市民の波で溢れていたそうです。

 コリーは、絶対的貧困が蔓延るフィリピンの民衆の生活を変えることはできなかったけれど、つまり、経済的な政策では大きな効果を挙げなかったかもしれないけれど、民衆の心を確実に勇気づけ、その後のフィリピンのあり方を、劇的に変えた人だったのです。

 つまり、民衆の思いは通じる、ということが証明された出来事だったのです。

 あのピープルパワーを支えた立役者は、実は他にもいっぱいいます。

 たとえば、DJ。当時、まだあまりTVが普及していなかったフィリピンでは、もっぱらラジオが情報源でした。
 ラジオから聞こえてくる声は、「マルコス政権に反対する仲間たち、マルコスの当選がイカサマだと思う仲間たちは、エドサ(通りの名前)に出て、抗議しようではないか!」というものでした。その声に呼応するかのように、民衆はどんどん、どんどんとエドサ通りへと繰り出し、たちまち民衆で溢れ返ってしまったのです。

 そして、軍は、このデモを武力で制圧しようとしました。何台もの装甲車が、デモの行進を阻みました。それだけではなく、国軍兵士たちは、装甲車の上からライフル銃を民衆に向けたのです。

 しかし、行進の先頭には、カトリック教会のシスターたちがいました。シスターたちは両手を大きく広げ、「民衆にライフルを向けるならば、その前にまずは私たちを撃ちなさい」。静かにそう言ったそうです。国民のほとんどが敬虔なクリスチャンであるフィリピン人。兵士たちも例外ではありませんでした。シスターたちを前にして、とうとうライフル銃を肩から降ろしたのです。

 コリーがいなければ、あの革命は起こらなかったかもしれないけれど、あのDJも、あのシスターたちも、そして、自分の気持ちに忠実になれたあの兵士たちもいなければ、今のフィリピンはなかったのです。

 そのことを、民衆たちはとてもよく知っています。いまだに当時のことが語り継がれているほどです。それが、あの盛大な葬送になったのだと思います。

 アキノ元大統領のご冥福を、心からお祈りしたいと思います。

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